筆者の夫はブラジル人。日系3世でブラジル育ち。日本に行ったり来たりを繰り返していたありがちな出稼ぎ外国人です。そんな夫と国際結婚し、5年が経ちました。たった5年ですが、5年間、私は戦っていました・・・。
国際結婚って「どんな生活をしているの?」「大変じゃないか?」などと聞かれる事が多いのでこの場に書きたいと思います。
注意:筆者の体験談については、あくまで、体験談です。主観含みます。
目次
結婚当初は喧嘩ばかり。
結婚当初は、価値観の違いから喧嘩ばかりでした。
私は高校を卒業してから、アメリカに長く滞在していた事もあり、結婚しても男女平等にという考えでした。私も働くから、家事は50:50(半々)で、足りない部分は外部サービスを頼るというスタンスでした。
しかし、ブラジル人の夫は、結婚前からそれを口約束で了解してくれていましたが、実際一緒に住むと全く家事をしませんでした。私が、深夜に仕事から帰宅し、翌日も朝から仕事が入っていても、酒を飲みながらドラマを見て夕飯はまだかと出されるのを待っていた事もあります。全ての掃除から買い出し、夫の身の回りの世話まで、基本は妻の私がやる事らしく、汚したまま、散らかし放題です。
具体的な事を書くと、ベランダで飲んだ空き缶はそのまま放置され、タバコの処理(私は吸いません)、夫が何かで使ったであろう雑巾なども使ったらそのまま使った場所に放置。その他、言い出すとキリがありません。
面倒な書類は全て妻に。夫のお世話に忙しい
国際結婚でありがちな問題に「言語の壁」があります。夫は「英語」ができたので、コミュニケーションは「日本語」と「英語」でした。しかし、日本に住むのならいつまでも日本語が書けない、読めないでは困ります。書類、契約関係は全て妻である私の担当になってしまいます。携帯電話や各種保険等の契約さえできないので、私が随時同行して説明を聞かなくてはなりません。職場の面接もまた、一緒です。外国人夫に代わって履歴書の作成をしたり、面接について行ったりする事もあります。
給料の前借りは当たり前。結婚生活を苦しめる金銭感覚
さらに、金銭感覚も全く異なります。
とにかく「今」、生活できればいいというスタンスなので、後先考えずに使います。ケチではありません。買いたいものがあれば購入し、人にも贈り物をしたりします。生活費が足りなくなれば、給料から前借りすることを考えます。前借りして「レジャー」などを楽しむのです。この「給料の前借り」はブラジル人ではよくある事らしく、前借りができる派遣会社というのも存在したり、ブラジル人経営の会社の場合はほとんど「前借りOK」のようです。
当初は、夫の給料の管理などしていなかったのですが、ある日、給料一ヶ月分を前借りし、翌月の給料が全くないなんて事が起こりました。使い道は外食や嗜好品の購入などだそうですが、日本人の感覚としては、翌月が苦しくなるなんてわかりきっているのに、前借りするなど、理解に苦しみます。また、税金の滞納なども発覚したことから、お金の管理も妻である私がする事になりました。
お金の管理に関しては、1980年代〜90年代前半(ちょうど夫の幼少期)にかけて、ブラジル経済が混乱していた事が背景にあるのかも知れません。当時のブラジルは、インフレ率が2000%を超え、一ヶ月で物価が2倍になったと言われていますので、「買える物は今買っておけ」と教えられたそうです。子供の頃に経験した金銭感覚が染み付いてしまっているのかもわかりません。
ブラジルは昔から家父長制
多くの事を配偶者に頼っていても、全く感謝の態度すら出しません。むしろ態度は大きく傲慢で、要求も多く、要求通りにしないと怒り怒鳴りつける、力を使って押さえつけるなどの行動が多く見られました。おそらく、助けてもらっているなどとは全く思っていなかったのだと思います。「妻ならやって当たり前、自分のできないことは妻がやる」と言っていましたから。
ブラジルの事について学び始めてから知りましたが、ブラジルは昔から家父長制で、男性が家庭で権力を持つという風潮があったようです。
実はブラジルが配偶者相互の責任と義務の平等を定めたのは2002年のこと。既婚女性が男性と等しい財産権を得る事ができたのは、1977年。父権に変わって親権の父母平等が認められたのは1988年。ジェンダー平等とされたのは結構最近の出来事のようです。
ブラジルは昔、ポルトガルの植民地で政教分離になるまで、カトリックが国教だったわけですが、この宗教が、ブラジルに根付いた「性別の役割」に大きく関係しています。
ブラジルと同じくカトリックの国であったフランスで1804年に制定された「ナポレオン法典」。これには、カトリックの唱えているジェンダーの役割を反映しており、家庭内の役割を「夫を家長とし、妻は夫に従属する」としていました。ブラジルでは、この「ナポレオン法典」を民法典制定のお手本としていました。
現在の法律は異なり、ジェンダー平等とされていますが、長い年月をかけて人々に根付いてしまったジェンダーへの価値観を刷新するのは時間がいる事でしょう。
安定していない雇用形態と劣悪な福利厚生
ブラジル人の我が夫は、結婚前、待遇の良いとは言えない仕事についていました。
明らかに雇用されているのに、個人事業主で「請負形態」なので、業務に使う道具も自己出費、社会保険すら会社は一切負担しなくていいようになっていました。個人事業なので、全て自己責任。もちろん社長の独断ですぐに解雇も可能なわけです。働き方は個人事業主ではなく、明らかに従業員。一見、何も天引きされていない給料が高いように見えても、健康保険や年金やらと後から払うので、むしろ報酬が安いのに気づいていない。
昔、ブラジルはヨーロッパからの移民が途絶え、深刻な労働不足に陥り、一時的手段として補助金を出して日本人移民の導入を開始しました。1908年に最初の日本人移民がブラジルへ渡っています。その後も、日本政府が国策として移民を進め、多くの日本人がブラジルへと渡りました。
それから80年あまり、今度は日本で労働力が不足し、入管法の改定と共に日系人の受け入れを開始。ブラジルから就労目的に多くの日系人が来日しました。日系3世までは「日本人の配偶者等」または「定住者」の在留資格を持ち、日本で制限無く働く事ができます。出入国が比較的簡単な理由から、在日ブラジル人はブラジルと日本の間を行き来する人も多くいます。
さて、そんな在日ブラジル人の労働についてですが、一定の傾向があるそうです。
働く場所としては、愛知や静岡など、工場地帯が広がる地方工業地帯が多く、その地域ではブラジル人コミュニティが存在します。派遣社員などの雇用形態で働いている事がほとんどで、日本人の好まない3K(きつい、汚い、危険)と言われる避けられがちな職を担っています。景気や季節の変動によっては、解雇され、契約内容によっては住居も失うことも少なくありません。
とは言うものの、今日の日本では、ブラジル人の職についても幅広くなってきており、建設、教育、介護、医療、ITなど資格が必要とされる職やブラジル人経営者も多くなりました。
「永住ビザ」を取得するブラジル人が増加し、日本で家だって買う人もいます。やる気と運があれば、日本人と大差なく働けるし、生活できるわけです。
筆者の夫のように、結婚して既に一定期間の滞在のような「デカセギ」ではないのに雇用形態が不安定で、福利厚生も無く働き続けるのは、彼らにとってはそれが普通の事と感じているからではないでしょうか。事実、筆者の夫は、「周りも一緒だから」「皆んなそうだから」「ブラジル人だから」等の理由を述べていました。
日本で結婚となると、「デカセギ」とは状況は変わります。日本人配偶者からすれば、少しでも安定した条件の良い職場に移ってもらいたいものです。
職探しについては、根気がいる作業かも知れませんが、日本人である配偶者の手伝いは必須かも知れません。また、日本人の配偶者がいるということだけで、日本で信用ができ、会社に入りやすくなることも事実あります。夫も友人の紹介を受けて、日本人と同じ待遇で正社員になれました。契約内容、待遇など確認して納得のいく職につくと生活も本人のやる気も労働に対する価値観もガラリと変わるはずです。
子供ができて、妻にのしかかる生活の負担は頂点に
生活の全てを妻に任せているのに、子供ができると、生活は更に難しくなります。
出産や育児で家事が回らなかったりするからです。できれば、家事も育児も夫に助けてもらいたい。しかし、筆者の夫は助けるどころか、育児でミスがあると激怒。「夕飯も俺が帰ってくるまでに作っておくように。」と伝えてきたり、産後一ヶ月後には、キレながら「パソコンで仕事しろ」「稼げ」と言ってくるようになりました。
稼げ。働け。と言われ続け、産後2ヶ月くらいで復帰し無理やり働き続けました。昼間に育児と家事を、夜中にPCで仕事をこなすという生活になり、生活のほとんどは全て私が回します。完全に孤独育児で、休む暇もありません。外国人夫ができる事は限られ、夫の世話も含めると、自分の時間など全く無く、寝る時間はほとんどありません。
夫は二日酔いや夫婦喧嘩の翌日には仕事を休み、もちろん収入が減るので、それを埋め合わせる為に私が土日、祝日働きました。
子供がちょっとした咳程度で様子を見て、夜中に熱が出てしまったときには、「なぜ、昼間に病院に連れて行かなかったんだ」「日曜でもやっている病院を探して行け。遠くても行け。」と責められる。
外出した際には、買い物中に不機嫌になり「俺は腹が減っているんだ、買い物なんか今すぐやめて、何かすぐに食べさせろ」。と顔を真っ赤にさせてお店でキレ出したり。
子供が寝ている時にシャワーに入っていると、子供が泣き出したようで、夫がパニックになりすごい勢いでシャワー室のドアを叩き、「今すぐ出ろ。あやせ。」と、シャワー室で私を怒鳴りつけ、シャンプー中など言い訳にならないらしく、シャワー室から引きづり出されて、タオル一枚身体に巻きつけて泣いている子供あやし、自分はその後にまたお風呂に入り直したり。
言い出すとキリがない。毎回、毎回、怒鳴り散らし不機嫌を私にぶつけてきました。
言い返すとビンタされ、顔に唾を吐かれたり、噛み付いて来たりしました。
こんな生活が1年、2年と続きます。毎日が夫の奴隷になった気分で、生活は地獄のよう。精神を保つのに精一杯でした。子供はまだ幼いですが、このままでは自分がどうにかなると、離婚を検討し、夫婦だけだと建設的な話し合いができない為、夫婦カウンセリングに通い、第3者を入れて何度も話し合いの場を設けました。
夫は離婚については同意せず、「直す。変わるから。時間が欲しい。」と繰り返し言っていました。カウンセリングを受けると、一時的に夫の感情も落ち着くのですが、持続的な変化は見られませんでした。
夫の家族と絶縁
夫の両親は夫の幼少期に離婚しており、母側は日系ではないですが、日本に住んでいます。訳があって義母の家の近くに引っ越したのですが、それから頻繁に自宅に訪れるようになりました。夜の9時、10時頃に、義母の娘(夫の妹)と来ることも多く、夕飯もこちらが用意する事も。
まだ1歳にもならない子供がいる家庭にその時間に訪れる事態、カルチャーショックなんですが、ブラジルでは普通とか言われました。(注意:ここは日本です)
余裕があれば、笑顔で迎え入れたいですが、夕食を作るのも片付けるのも、子供の寝かしつけも、私がするわけで、全く余裕なんてありません。しかも急に来るので、本当迷惑でした。
ブラジル人の良い所とも言える明るさと声の大きさが、深夜には苦痛になりました。こんな時間に来客があると子供は寝てくれません。帰るのは11時を回ってから、時には深夜過ぎる事もありました。
また、頻繁に起こる夫婦喧嘩を知る度に、義母は自宅へ駆けつけてきます。
絶縁のきっかけとなったのは、夫婦喧嘩の故に、私が離婚したい旨を申し出た際に、義母が子供の親権を取ろうとした事です。夜中、義母の娘(夫の妹)と自宅に押しかけ「子供は私が育てる」と義母に言われた時、私は怒りが込み上げたのを今でも忘れられません。義母と口論する隣で、ケラケラ笑いながら動画を撮る夫の姿も目に焼き付いています。
ブラジルでは普通のようですが、夫は異父兄弟が複数います。母側に育てられた子供達は、皆大学の進学はしておらず、住むのにかかる費用は子供たちと折半しているようです。
それゆえに、子供の親権を取ろうとした事もお金が目的なのではと勘繰ってしまいます。
ブラジル人の女性はとにかく、強い。怒ると気性が荒く、話し合いなど出来たものでもなく、正直、誰かに助けてもらいたかった。
自宅にいるのは私と子供、横にはニヤついた顔で動画を撮る夫、前には「親権を渡す」と言ってもらいたい義母。その横に、夫の異父の妹。
気分的には3対1。帰る気配も全くなし。助けて欲しいの一心で、警察に連絡。
警察は、駆けつけて助けてくれました。3人を義母の家に帰らせてくれました。あの時は本当に私の救世主でした。
その後、警察はシェルターを紹介してくれましたが、シェルターに入ると、当然の事ながら誰とも連絡は取れなくなってしまいます。当時は1歳になる子供の保育園の入園と共に、私はIT業の会社に通勤する事が決まっていた為、シェルターのお世話にならない決断に至りました。
こんな事があってから、夫の家族(母親側)とは今でも絶縁状態が続いています。申し訳ないですが、顔を見る気すらなれません。
離婚に前進していたはずが一変
もう離婚しかないと、友人や家族、誰もが思っていたと思います。
私自身が会社に行くようになり、仕事中は家でのゴタゴタを忘れ、気分転換になりました。毎日、ひたすら動き、日々の業務をこなすのに必死でした。忙しさからなのか、ストレスなのか、原因不明の腹痛に襲われ、動けなくなり救急車で運ばれたりしました。とにかく、毎日が嵐のように過ぎ去りました。
自分の収入が十分確保できると、私はもう夫より強気でした。いつでも離婚できる気でいました。
そんな夫婦の冷え切った状況はある日を境に変わりました。
夫は「アルコール依存症」だったのです。
前からその兆候が見られてはいましたが、夫は頑なに病院の受診を拒否していました。しかし、「離婚するか」「病院を受診するか」の2択となった夫は、病院を受診する事に同意しました。
専門外来を受診して、やっと診断が出たときに、私はホッとしました。病院の先生から、「奥さんは何度も旦那さんに裏切られてきたんでしょう」と言われたときに、肩が軽くなったような気がして、涙が出そうになりました。
それからです。ブラジル人の夫は、病院と断酒会に通い始め、徐々に段階はありますが穏やかになっていきました。初めはイライラしたり、情緒不安定になったりして、再飲酒してしまったりしましたが、断酒を始めてから半年程度で激的な変化を遂げて、頼んだ家事もするようになり、書類関係など、翻訳アプリを利用し、自分でするようになりました。資格を取ろうと勉強したりする姿も見られました。
もちろん、断酒前に頻繁に起こっていた金銭的なトラブルもなくなりました。
持ち前の明るさで、子供ともよく遊んでくれる為、子供も幸せそうで安心します。これが、本来の夫の姿だったのかも知れません。
ただ、油断ができないのが「アルコール依存症」。完治はしない為、今後も当事者の波が予想されます。私も彼が口にする食事にアルコールが入っていないか気を使います。
診断を受けたことにより、本人が自覚し治療に励み、例え何かをきっかけに再飲酒してしまったとしても、本人も反省してくれますし、対応がとても楽になりました。ひとまず、やっと普通の生活ができるようになりました。穏やかな、普通の生活です。
消えない過去の傷
今は問題が無くても、過去の辛い出来事はトラウマのように心に残っていました。目を閉じると急に思い出し、その時感じた感情が湧いてきて、怒りや悲しみに支配されたような感覚になる時があります。
夫婦関係が良い方向へと一変しても、過去の地獄のような日々は私の記憶に深く刻まれてしまいました。
過去は変える事ができない。いつまでも、被害者意識でもいられない。だから、考え方をもっとフラットにしようと思います。
今まで起こった出来事が、もし、起こるべくして起こっていたら。
全てが必然だったら。過去に起きた点が繋がって未来が来るとしたら、私に起きた辛い出来事も必然だったわけで、通るべき点であっただけ。と考えたら、少し楽になりました。
「自分がこうしていたら〜」とか、「ああしていたら〜」とか、「自分は浅はかだった〜」とか、「悪いのはアイツだ〜」とかじゃなくて、点を通っただけ。もう過去の点は過ぎた。過去の点を通って今の点を通過中。今の点を生きるだけ。
参考文献
- 田村梨花、他、(2017).『ブラジルの人と社会』. 上智大学.
- 金七紀男 (2014).『図説 ブラジルの歴史』河出書房新社.