ブラジリアン柔術という格闘技を聞いたことがあるだろうか。
日系ブラジル人の筆者の夫は、突然、「ブラジリアン柔術が習いたい」と言い出した。
ブラジリアン柔術がしたい…。
今まで格闘技など習った事もない人だった。結婚前、ブラジルと日本の間を行ったり来たりしていた夫は、結婚してからというもの、ずっと日本に滞在している。結婚してから生活を取り巻く環境が一変し、何かしらストレスが溜まっているように見える。
日本語も日本人のようには話せない事もあり、生活していく中で不便な事もついてまわる。日系ブラジル人は日本とブラジルを繰り返し行き来する人が多く、せっかく友達ができても、ブラジルへ帰ってしまう事も多かった。日本でも特に都会の方へ行くと、よく外人を見かけるようになったが、地方の方はまだまだ少数で、孤立感もあるように思える。
聞く所によると、日本で開催されるブラジリアン柔術の大会には、日系ブラジル人の参加者の割合も多く、日本の「柔道」や「空手」の大会とは少し違った雰囲気があるという。
夫が「ブラジリアン柔術が習いたい」と言った背景には、ブラジリアン柔術という格闘技を通して、仲間を作るという目的と、精神を安定させるという目的があるようだ。
ブラジリアン柔術…。ところで、柔術って何??なぜブラジリアン?
さて、ブラジリアン柔術とは何だろうか。筆者は格闘技についての知識は無であるが、この際なので、全くブラジリアン柔術を知らない人でもわかるように解説したいと思う。
目次
ブラジリアン柔術とは?
ブラジリアン柔術とは、ブラジルが世界に誇る格闘技である。日本から伝わった柔道・柔術がブラジルで独自の発展を遂げ、護身術に重きをおいた「グレイシー柔術」がブラジル国内で普及していく。グレイシー柔術が競技スポーツとして知名度を上げ、ブラジリアン柔術として世界に知れ渡るようになった。
グレイシー柔術と日本人の繋がり
ブラジルに柔道・柔術を伝えたのは日本の柔道家、前田光世(まえだみつよ)だ。リングネームは「コンデ・コマ」として知られている。今からおよそ1世紀も前の事だ。
1914年(大正3年)、柔道普及活動の為、ブラジルに渡った前田光世はブラジルのベレンに定住する。
そこで、有力な政治家である、ガスタオン・グレイシーという人物に出会うことになるのだ。このガスタオンには5人の子供がいた。
長男カーロスは悪ガキで、ガスタオンはしつけに手を焼いていたそうで、ガスタオンは前田にカーロスの指導をお願いしたのだ。これが、1919年末または20年初めの事だ。
治安の悪いブラジルで、前田が教えたのは、護身や喧嘩で勝つ為の実践的な術であったようだ。前田は、のちにガスタオンの5人の息子全員に指導をしている。
指導開始の5、6年後には、長男カーロスはリオデジャネイロに移り住み、「グレイシー柔術アカデミー」を開設した。それからというもの、五男のエリオ・グレイシーが指導に積極的に参加し始めた。ブラジリアン柔術の歴史で重要人物となるのは、長男カーロスと、五男のエリオだ。
エリオは体が比較的小さく、喘息を持っていた。そんな彼は、“力を使わずに相手を制する術” を熱心に学んだ。エリオは新しい技術を考案し、体の小さい人の為の護身術を完成させたのだ。
カーロスとエリオはリオデジャネイロを中心に活動を続け、アメリカ人のレスラーや、日本人含む柔道家とも他流試合を行い、注目度を集め、「グレイシー柔術」の名を広めていった。
ブラジルではこの他流試合をVT(バーリトゥード)と呼んでいる。ポルトガル語で「なんでもあり」という意味で、ルールは最小限で行われ、素手で戦う。ブラジルでは人気があり、グレイシー柔術はこのVTの為に競技向けに磨かれていったといえる。
ブラジル国内では広まってきたけど、世界的に注目されるのはまだ先なんだ。
ブラジリアン柔術が世界から注目を集めたきっかけはUFC
エリオは1952年に引退し、その後もブラジリアン柔術協会の会長に就任するなどして、活動していた。ブラジリアン柔術が世界から注目され始めたのは、彼の息子(六男)であるホイス・グレイシーがアメリカで開催されたUFCで優勝した時だ。
UFC と MMA って何のこと?? UFC:アメリカの総合格闘技団体のことで、MMAの試合を主催する団体の事。 MMA: [ Mixed Martial Arts ] の略で、日本語にすると総合格闘技。その名前の通り、様々な格闘技の技術の使用が認められている。
当時この大会は、目を攻撃する事と噛みつく事以外は何をしてもいいという過激なルールとなっていた中、優勝を勝ち取った「グレイシー柔術/ブラジリアン柔術」は格闘技メディアに大々的に取り上げられ、世界に知れ渡ったのだ。
ちなみに、このUFCの大会の運営には、エリオ・グレイシーの長男であるホリオン・グレイシーが関わっていたんだよ。ブラジリアン柔術の強さや、存在を世界へ伝える為に、「大きな舞台」を準備したわけだ。
UFCをきっかけにして、アメリカで柔術が人気になった為、ホリオン・グレイシーは、「グレイシー柔術」を商標登録した。そのために「ブラジリアン柔術」という名称が広まっていったのだ。
ブラジリアン柔術として日本へ認知される
UFCから世界中で人気となった総合格闘技は日本でも知名度を高め、1994年と翌年、日本でUFCと同じルールの総合格闘技イベントが開催された。1997年には、日本人プロレスラー高田延彦とエリオ・グレイシーの三男にあたるヒクソン・グレイシーが対戦し、ヒクソンが勝利を収めている。この試合の翌年には、日本ブラジリアン柔術連盟(略:JBJJF) が発足し、日本で大会や競技人口が増加した。
第一回全日本ブラジリアン柔術選手権の参加アカデミーは7つのみと少数だったが、それから5年後の2003年にはアカデミー数は96に増加。ここ最近では、2021年のタウンニュースのオンライン記事によれば、日本ブラジリアン柔術連盟には、およそ300の団体が加盟しており、競技人口は5万人という。
かつて、前田光世(コンデ・コマ)がブラジルへ柔道・柔術を伝えた。グレイシー家を通し、ブラジル現地で改良・発展をとげ、アメリカへ広がり、メディアと融合して爆発的に世界へ広がった。そして、ブラジリアン柔術となって、100年の時をえて、日本へ戻ってきたのだ。
柔道が柔術になったわけ
さて、ここで、疑問が一つ。前田は19歳の時に講道館柔道に入門している。実力もある、若手の柔道家だったようだ。柔道普及の為に海外へ渡った前田が教えた技術が、どうして、ブラジルで「柔術」となったのか。
その理由は、前田がブラジルに辿り着く前に訪れていたアメリカにあった。当時アメリカの大統領だったセオドア・ルーズベルトの招待を受け、講道館柔道の四天王と呼ばれた「富田常次郎(とみた つねじろう)」(当時40歳くらい) と共に前田はアメリカへ渡っている。
ルーズベルト大統領は親日家で、日本の文化に関心を示し、前田達がアメリカに渡る以前に、同じく講道館の四天王と呼ばれる一人、山下義韶(やました よしつぐ)から、柔道の指導を受けていた人物だ。
しかし、前田達はアメリカで失態を犯してしまう。最初に訪れた陸軍士官学校で、学生レスラーと対戦し、敗北してしまったのだ。この敗北により、前田達はアメリカの上流社会での指導の機会を失ってしまう。結果、講道館柔道が禁止していた他流試合や観客へ見せる事を目的とした試合へと参加していく事となるのだ。
この他流試合や興行試合は柔道とはルールが異なり、どちらかが「参った」とするまで続けられる。柔道のように1本を取って勝敗が決まるということではなかったのだ。
他流試合や興行試合に勝利する為、前田は技術を進化させた。講道館柔道の枠からはみ出した、関節技や締めの技術を重視するようになり、世界各地で勝利を収め、その強さを知らしめた。
この時から前田は「柔道」と言わずに「柔術」と名乗ることが多かったそうだ。講道館柔道とは異なった技術で勝利を収める事に「柔道」とは言えなかったかもしれない。
高専柔道とブラジリアン柔術
戦前の日本では、「高専柔道」という寝技が中心の柔道が発達した。この高専柔道に非常によく似ているのが、「ブラジリアン柔術」なのである。
元々、柔道は日本古来の武術である「柔術」から生まれている。その古流柔術のほとんどが寝技に限られ、これには多くの柔道家も敗戦をしていた。
柔道というスポーツを作った講道館は、その古流柔術の対抗策として、寝技研究に取り組み、明治後期になって、「高専柔道」に引き継がれていったようだ。
立ち技の場合は、3、4年程度の練習では普通の人には到達しにくく、「体格や持って生まれたセンスが必要」とされるが、寝技に関しては上達が早く「練習量が全てを決定する」と言われている。
体格が比較的小さく、力もそれ程強くなかった旧制高校生達は、「練習量が全てを決定する」寝技に着目し、独自の寝技中心の柔道を作り上げた。それが、「高専柔道」だった。
大正初期に入ると高専柔道の影響で寝技が加速的に普及していったのだ。
講道館による指導の基本方針はあくまで、投げ技と第一とし、寝技はこれに次いで学ぶべきものとされていた為、試合に寝技勝負の傾向が出始めると、寝技を主体とする現状を制限すべきであるという意向が強まってくる。
現在の講道館ルールでもあるが、立ち技をかけずに、自ら寝に入る「引き込み」を制限したのはこういった背景からだ。
ー ルールの違いをざっくり比較 ー 講道館柔道 :投げ技をかけて、もつれた時だけ寝技への移行が許される。 高専柔道:自由に寝に入り、固技、絞め技、関節技が用いられる。 ※現在、総合格闘技で行われている、「三角絞め」「オモプラッタ」「膝十字固め」などは、高専柔道の中で開発をされたものであったそうだ。
戦争をきっかけとして、大会の開催が困難な状況になった。戦後に再開された学生柔道は、講道館によって寝技に重きをおいたものでは無くなっており、高専柔道は影に隠れていった。
実は現在でも、高専柔道を受けつぐ寝技中心の柔道大会がある。七つの旧帝大(北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、大阪大学、九州大学)の柔道部に限られているが七帝柔道と呼ばれ、講道館柔道とは全く異なるルールで行われる。
前田光世が地球の裏側ブラジルへ行ったのは、大正3年。高専柔道が栄えた時代、当然、前田も寝技についても研究をしていたに違いないんだろう。それが、地球の裏側でグレイシー家に伝えられ、進化を遂げて1世紀を超えてから日本に戻ってきたなんて…..驚きしかない。
まとめ
- ブラジリアン柔術は、日本人「前田光世」が伝えた柔道・柔術がブラジルのグレイシー家で独自に発展したもの
- 当初、ブラジリアン柔術は、治安の悪いブラジル向けに実戦的な技術が多かったが、スポーツ競技向けに進化をしていった
- 人気に火がついたグレイシー柔術が商標登録された為、「ブラジリアン柔術」として広まった
- 日本の高専柔道とブラジリアン柔術は非常によく似ている。寝技が主体で、固め技、絞め技、関節技、投げ技が用いられる
参考文献
- 坂上康博「海を渡った柔術と柔道」青弓社 2010/06/16
- 布施ら (2003), ブラジリアン柔術入門―柔術は地球を救う,B.B.mook―スポーツシリーズ (245), 18-110.
- Manabu Takashima (2004), ブラジリアン柔術黎明期, 柔術王―ブラジリアン柔術を喰らえ! (Inforest mook),22-27.
- 「寝技の攻防競う 武道館でブラジリアン柔術」神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙タウンニュース,2021/9/30(2022/08/16)