そーいえばさ、パパってブラジル人なのに、ポルトガル語を話すよね!なんで、ポルトガル語なの??

ブラジルは昔、ポルトガルの植民地だったからだよ。今から500年以上前にポルトガル人に発見されたんだ。昔は、ブラジルも日本と同じように皇室があったんだよ。
ブラジルの歴史を簡単に教えてあげるよ!

インドを目指していた!?ブラジル大陸を発見

ブラジルの歴史は、今から500年以上前の1500年にさかのぼる。インドを目指していたポルトガル船団によって発見された。偶然、潮流で行き着いたのか、意図的によるものなのかは、はっきりわかっていない。この時期のヨーロッパは、大航海時代。食料保存の為に高い需要のあった香辛料、織物、金などを求めて、主にスペイン、ポルトガルの2国が海外に進出していた。

皆んなが知っているコロンブスが、アメリカ大陸を発見したのもこの時期だよ。彼は、スペインから送り出されたんだ。

ブラジルの語源はブラジルに自生していた木

パウ・ブラジルウィキペディアより

ブラジルの国名は何度か改名を繰り返す事になる。発見された当初、ブラジルは「ヴィラクルス(真の十字架)」と命名され、のちに「サンタクルス(聖なる十字架)」と改名された。しかし、ブラジルで赤色の染色料となる「パウ・ブラジル」が多く自生していた事から「パウ・ブラジルの地」と呼ばれるようになる。それを後に略して「ブラジル」と呼ばれるようになっていった。

先住民 – インディオの存在

先住民の村 ,アマゾナス州,ブラジル

ブラジル大陸を発見した当時、ブラジルには多くの先住民がいた。資料によって推計は異なるが、200万人という説から500万人という説もあり様々である。先住民は外部から来た外国人(ポルトガル人など)と徐々に打ち解け、友好的な態度を示すようになっていく。外国人は斧や衣類、雑貨など物々交換をする形で先住民に「パウ・ブラジル」を伐採、運搬させていた。 のちにヨーロッパから来た植民者達に先住民は労働力として奴隷扱いされ、さらに白人がもってきたとされる感染病により、免疫のなかった先住民の大量死を招き、人口は激減してしまう。

砂糖の時代到来

food salad healthy wood
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1532年、入植者達は、サンパウロに近いブラジル南東部に開拓地を作り、サトウキビ栽培を始める。これは、ブラジルの気候がサトウキビの栽培に適しているとされ、さらに、ヨーロッパで砂糖の需要が期待された為だった。

その期待通りに、1560年頃からヨーロッパで砂糖の需要が増加した。砂糖産業はブラジルの主力産業となり、ブラジル経済を支えた。それゆえに、広い土地を所有する砂糖農園主達は社会的、政治的権力を強めていった。このヨーロッパ市場のブラジル砂糖産業の独占は、17世紀半ばまで続く。17世紀にはカリブ海諸島で他国より砂糖産業の参入があり、それまで独占していたブラジル砂糖産業は苦しくなっていった。

奴隷に支えられる砂糖農園

砂糖は生産から製糖するまで沢山の労働力を必要とする。なので、労働力の確保が砂糖農園の経営を大きく左右していた。初めは先住民(インディオ)の奴隷に依存していたが、1570年「インディオ奴隷禁止令」が出されると、労働力確保の為、黒人奴隷の数が急増する。奴隷は長時間労働など、過酷な生活を強いられ、自殺や、逃亡など様々な形で激しく抵抗する。

この時期から、黒人、インディオ、白人との間に混血(ハーフ)が生まれて、ブラジルに混血社会が形成されてくるよ。

新たな財源を模索して-黄金発見!

オウロ・プレットの街並み ミナスジェライス州, ブラジル,

他国からの砂糖産業参入も影響して、砂糖の輸出では儲からなくなってきたので、ポルトガルは新たな財源を求めだした。それは、貴金属探検だった。1693年、ついに入植者達は、ブラジル南東部の山脈に砂金を発見する。この5年後にも、ブラジルの都市オウロ・プレットで金脈を発見し、その周辺地域でも鉱脈が発見される。この地域は「ミナスジェライス(万人の鉱山)」と呼ばれるようになった。ミナスジェライスとリオデジャネイロを結ぶ道路が建設され、採掘された金はほとんどリオデジャネイロに運ばれた。1763年、リオデジャネイロは経済の中心地となり、ブラジルの首都となる。この金ブームは18世紀半ばまで続く事になる。しかしながら、金の輸出額は砂糖の総生産額には及ばなく、ブラジル経済の基軸は砂糖という事に変わりなかった。

18世紀くらいから、金が中々採掘できなくなってくるのに対して、政府は税金の徴収や製造業の廃止などの政策を進め、民衆に負担がのしかかり、不満が募って、反乱が起こってくるんだ。

王室逃亡!植民地から連合王国へ

ポルトガル及びブラジル・アルガルヴェ連合王国の国旗ーウィキペディアより

1808年、王室がポルトガルを捨て、ブラジルに逃げてきた。ポルトガルのリスボンはフランス軍(ナポレオン)に占領された。しかしながら、ブラジルの首都リオデジャネイロは、王室が来た事で整備され、国家機関が生まれ、近代化していった。ナポレオンが敗北すると、王室の帰還が懸念されたが、王室はブラジルにとどまり「ポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国」という帝国が誕生した。

1820年になるとポルトガルで自由主義革命が起こり、革命政府はブラジルにいる国王の帰還とブラジルを植民地に戻す事を要求してきた。 当時の王、ジョアン6世は国民議会の圧力に負け息子のドン・ペドロをブラジルに残してポルトガルに帰国した。

帰還命令を拒否!ブラジル帝国が誕生

ドン・ペドロ1世

1821年、ついにジョアン6世の息子ドン・ペドロにもポルトガルへ帰還命令が出された。しかし、ペドロはこれを拒否し、1822年、新しい国家「ブラジル帝国」が誕生する。ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位した。

19世紀ヨーロッパの多くはフランス革命の影響を受けていて、立憲君主制に移行していた事もあり、ブラジルでも、三権分立を取り入れ、皇帝の権力を制限する仕組みにされた。しかし、この3権に加えて、ブラジルでは皇帝に「調整権利」が与えられ、事実上は、皇帝が絶対主義的な権力をもっていた。この中央集権的な憲法によって、各地で不満が相次ぎ反乱が起こる。反乱は鎮圧できていたものの、1826年のジョアン6世が死去した事がきっかけとなり、ペドロ1世はブラジルを去る事になる。ポルトガル王位継承をめぐって、ペドロの娘マリア2世(立憲君主主義)と弟ミゲル(絶対君主主義)との間で内戦が勃発した為だ。ペドロは娘のマリア2世の側につき、1831年、皇帝位を長男ドン・ペドロ2世に譲り、軍を率いてポルトガルに帰国した。

ブラジル皇帝2世はまだ5歳!?

1831年、皇帝位を譲りうけたペドロ2世はまだ5歳と幼く、帝王になれなかったので、憲法に従い選ばれた3人が帝王に代わって政治を収める摂政政治が始まる。この時期の政治の実権は広い土地を所有する砂糖農園主達の手に渡った。1834年には、憲法を一部修正し、県の「自主権」が認められ、大農園主(地域有力者)の権限が増し、支配階級間の権力争いが発生する。また、奴隷や一般民衆からも生活条件の改善を要求する反乱が相次いだ。政府は各地の反乱に危機感を抱き、1840年、県の権限を縮小し、ペドロ2世の成人を4年早める事にした。ペドロ2世は14歳という若さでブラジル皇帝の座につく事になった。

コーヒーがブラジルの経済を支える

flat lay photography of cup of coffee surrounded by coffee beans
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19世紀、20世紀、ブラジルを支えていたのはコーヒー産業だった。コーヒーは1830年に砂糖産業を抜いて、ブラジルの主力産業となる。その後も生産は増加し続け経営規模も拡大、1861年ブラジルの貿易収入は赤字から黒字へ一転した。1850年にイギリスの圧力から奴隷貿易が禁止され、貿易資金は鉄道建設、銀行、製造業、またコーヒーの技術改良にも投資された。これまでラバを使って陸地で生産されたコーヒーを港まで運んでいたが、鉄道輸送が可能になった。コーヒー産業を営む、大農園主達が経済的にブラジル経済を支え、皇帝もまた、そんな大農園主達に支えられていた。

300年続いた奴隷制の廃止

silhouette of people by the seashore
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世界では奴隷解放の動きが高まっていた。しかし、ブラジルの経済を支えている大農園主達(支配階級)は労働力として奴隷が必要不可欠であった。大農園主達に支えられている皇帝は、自らは奴隷制廃止に好意的であっても、積極的に進められなかった。1886年になると、南アメリカで奴隷制が存在するのはブラジルだけとなり、各地で奴隷解放運動が盛んに行われ、奴隷制廃止の流れは止める事ができなくなっていった。1888年、議会から奴隷制廃止の法案が出され、ペドロ2世の後継者、イザベル皇女が不在だったペドロ2世に代わって署名をし、ついにブラジルの奴隷制に終止符をうつ。

帝政は倒され、皇室はヨーロッパへ亡命

大都市では、弁護士や、医者、ジャーナリストなど中間層が成長を遂げて、権利を主張する人々が増えた。自由や平等という考えが浸透し、君主制に批判的となり、共和主義が広がっていく。

1889年11月15日、ブラジル最初の共和制が始まる。陸軍、教会、大農園主、中間層、エリート層などからの批判が強まり、共和主義者達は陸軍と連携してクーデターを起こし、帝政を倒し共和制が宣言された。皇室はポルトガルに亡命する。この出来事は、民衆はあまり関わりがなく、ほとんど陸軍の主導した事だった。

今日はここまで。少し、ブラジルの歴史に興味が出てくれたかな??続きは、ブラジル最初の共和政からだよ!

続きの記事 → 第一共和制時代まとめ

参考文献

  • 金七紀男「図説 ブラジルの歴史」河出書房新社 2014/10/24
  • シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ / 東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳「ブラジルの歴史 ─ブラジル高校歴史教科書」明石書店〈世界の教科書シリーズ〉 2003/1/24
  • ボリス・ファウスト / 鈴木茂訳 「ブラジル史」明石書店〈世界歴史叢書〉2008/6/10