ブラジルで帝政が崩壊した後、「第一共和政」また、「旧共和制」と呼ばれるこの時代を、なるべくわかりやすくまとめてみました。ブラジル発見から帝政崩壊までのまとめ記事はこちらから見てね。
帝政から共和政に変わるこの時期は、様々な権力が、共和政のあり方をめぐって争うんだ。まずは、どんな権力が何を目指していたのかを抑えておこう。
目次
目指す第一共和政のあり方
クーデターを執行した陸軍はブラジル政治を握ることになるが、この時、陸軍は2人の支持を巡って2派に分かれていた。デオドーロ派とフロリアーノ派である。デオドーロは反乱軍を指揮した将軍だった。彼の支持者は「陸軍の名誉」と「権力の拡大」の為に戦い、特に第一共和政に明確な見通しはなかった。
一方で同じく軍人のフロリアーノ支持者は陸軍の若い将校達が多く、フランス社会学の創設者で知られるオーギュス・コントの「実証主義」に深く影響をうけている者達だった。
コントの実証主義とは
社会進化論の一つ。神や魂などの「神学」や、その原理を理性的に考察しようとする「形而上学」を得て、「事実確認できないことは信じず、実際に観察された事実を基盤とする」とした考え方で、「人間は知性と社会性があり、連帯して互いに依存しあっている。行き過ぎた個人主義にならないよう、道徳教育で社会秩序を取り戻し、秩序を基盤として進歩(発展)する」といった思想。
この実証主義に影響を受けた若い将校達にとって、第一共和政は、「秩序」と共に「進歩」を実現するものでなければならなかった。この「進歩」とは、科学技術の発展、工業成長、インフラの拡大を通じた社会近代化の事を意味していた。
また、海軍は帝政時期のような君主政支持者が多くいた。
ブラジルの主要な州のサンパウロ州、ミナスジェライス州、リオグランデ・ド・スル州の3州は、地方自治権の拡大(連邦共和政)を求めていた。しかしながら、この3州の中でも意見は分かれており、サンパウロ州とミナスジェライス州では自由主義的なモデルを求め、リオグランデ・ド・スル州のみ共和主義的な、実証主義に影響されていた。
陸軍、海軍、州のエリート達で目指す共和政が違ったんだね。でも、共和主義と自由主義ってそもそも何が違うのかしら?
「自由主義」って国家は個人の行動に介入しないよね。「共和主義」は、国家が個人の道徳育成など部分的に介入を行えるんだ。共和制では、選ばれた代表によっては独裁政治にもなりえるね。独裁政治では、やはり個人の自由を広く広めてしまうと社会体制崩壊の恐れも出てくるので、自由主義は認めない傾向も多いんだ。
ブラジル国旗が誕生
1889年、「共和制」が宣言され、陸軍が中心となり、臨時政府が作られた。現在のブラジル国旗の原型もこの時に誕生する。行政区画も県から州に改められた。
臨時政府は「実証主義」に影響をうけていて、「実証主義」のモットーである、「秩序」と「進歩」を国旗に書き込んでいる。ブラジル国旗に描かれた27個の星は26州と1連邦区を表していて、その星空は1889年11月15日のリオデジャネイロから見た空を示している。緑は内陸部の豊かな大森林、菱形の黄色は鉱物資源を象徴し、中央の円形の天空と星は大航海を連想させる天球儀を表している。
第一共和政最初の憲法を公布
1891年には第一共和政の新しい憲法が公布された。この憲法は「実証主義」と「アメリカ合衆国憲法」に影響されていた。政府の形態は大統領制とされ、それぞれの州が高い自主権を持って構成された「連邦共和国」と定められた。これにより、州の権限は拡大され、独自の軍事力、また、司法制度を整備する権限を得た。さらに外国と資金の貸借も独自にできるようになった。普通直接選挙が導入されて21歳以上の読み書きができる全ての男性に選挙権与えられた。政治と宗教は分離されて、宗教の自由が宣言され、カトリックは国教ではなくなった。連邦政府には、関税、発券銀行の創設、国軍の編成、州へ介入する権限が与えられた。
軍事独裁政治!忍び寄るサンパウロ州
憲法公布後、1891年2月、第一共和政最初の大統領になったのは、デオドーロ将軍だった。デオドーロは軍事としての教育を受けていた為、ブラジルを統治する上でも支配的で強引な手法をとった。それにより、議会や国民の反発を受けて、大統領就任から1年も経たずに辞任を免れなくなってしまった。
彼が辞任して、副大統領だった軍人のフロリアーノが大統領へ昇格した。彼は、軍事独裁を基盤とし、中央集権化を進め、社会の近代化を目指した。1893年、君主制支持者の強い海軍が陸軍の主張する共和政府に反乱を試みたが、フロリアーノはサンパウロ共和党から財政支援を得て、海軍の反乱の制圧に成功した。フロリアーノはサンパウロ州エリート層の助けなしでは統治の政治権力を安定し機能させることができなかった。サンパウロ共和党は政府内で影響力が大きくなっていき、軍部の影響力は低下していく。過激な共和主義者達はフロリアーノの軍政の続行を望んだが、フロリアーノは1894年11月の任期満了で辞任する。
3代目大統領はサンパウロ出身 – 軍部の衰え
3代目大統領は、国民投票で軍人でないサンパウロ出身の大統領が選ばれた。3代目の大統領の4年間は波乱に満ちたものになった。リオグランデ・ド・スル州で過激な共和主義者達と自由主義者達の間で対立があり、それが終わると、民衆と政府軍の間で対立した「カヌードス戦争」が始まる。任期最終年の1897年には、大統領暗殺未遂事件がおき、過激な共和主義者達は事件の関与が明らかになり消滅。事件と一部軍人の関わりも明らかとなり、軍部の政治活動も衰えた。
なんだか共和政をめぐって、争いが起きているね。
実際には、第一共和制になっても支配層が入れ替わっただけで、社会の経済構造はほとんど変わっていなかったんだよ。
ブラジルの政治を動かす「カフェ・コン・レイテ体制」
1889年から1930年まで第一共和政体制は続くが、この第一共和政時代は「カフェ・コン・レイテ(カフェ・オ・レ)」の時代と呼ばれる。1890年代、コーヒーはブラジル輸出総額の6割を占めていた。つまり、コーヒー生産州であるサンパウロ州とミナスジェライス州がブラジルの経済を支えていた事になる。 ミナスジェライス州はコーヒー生産の他にも伝統的に酪農で知られていて、この2州における支配体制は「カフェ・コン・レイテ(カフェ・オ・レ)」と表現されている。
3代目に続いて1898年もサンパウロ出身の大統領が就任し、コーヒー権力者の支配体制が確立する。大統領と地方の有力者は利害関係で結ばれ、有権者を自由に操る事が可能だった。州知事選挙や国会議員選挙では、特定の候補者が必ず当選するように仕組まれていた。
ちなみに、1894年からこの第一共和政が倒される1930年まで、11人の大統領のうち、5人がサンパウロ出身で、5人がミナスジェライスの出身だったんだよ。
コーヒー余ったら政府が買い取ります!
ブラジル主力輸出産業のコーヒーは、帝政末期から生産量が消費量を上回るようになり、その価格は下落していく。共和政府は為替操作によって、ブラジルの通過の価値を下げ、輸出を増やし、生産者を助けていた。しかし、輸入製品に頼っている住民に対しては物価が上がり、大きな負担となった。コーヒー生産者はさらに生産に励み、在庫が生まれ、新たな対策として、コーヒー生産州の知事達は、大統領の反対を押し切って、1906年、中央政府が外国から借り入れた資金で余剰品を買い上げて価格が上昇した時に売却するという「コーヒー価格維持政策」を、国会で承認させた。
移民に支えられるコーヒー産業。日本人も新天地ブラジルへ!
第一共和政の初期から移民の数は増加し、体制が変わる1930年までには合計390万人の移民がブラジルに渡った。移民国籍はイタリアが多く、ポルトガル、スペインと続いていて、ラテン系が多い。新しい生活を求めて遥々渡ってきた移民達だったが、彼らに待っていたのは過酷な労働と厳しい待遇だった。雇用主からの虐待や賃金未払い、過剰生産による不況で失業が相次ぎ、ヨーロッパ政府はブラジル渡航を禁止してしまう。コーヒー生産はヨーロッパからの移民に支えられていた為、労働力の確保に困ってしまったサンパウロ州は日本などアジア人を契約農として受け入れ始めた。1908年、日本人を乗せた最初の移民船「笠戸丸」はサンパウロの港に781人を乗せて上陸した。雇用主の大農園主は奴隷制の精神がまだ抜けておらず、日本人移民もヨーロッパ移民同様に、労働条件、生活環境は劣悪で、偏見もあり、過酷な生活を強いられた。
大統領、交互に選出しましょ
1910年になると、ミナスジェライス州とリオグランデドスル州の支援をうけた軍人の大統領が当選する。コーヒー生産とは無縁だったリオグランデ・ド・スル州が勢力を得てきた事に焦ったサンパウロ州は、1913年、サンパウロ州とミナスジェライス州で大統領を交互に選出する協定を結ぶ。
1914年にはヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、ブラジルも1917年から参戦した。戦争で、外国からの輸入が途絶えがちになると、国内工業が急速に発展し始める。労働改善を要求した労働運動が激化し、社会不安が増していく。
下落するコーヒー価格 – 現体制に不満が募る
1920年からコーヒー価格下落と共に経済状況が悪化。各地で連邦政府に対する不満が高まってくる。今まで、サンパウロ州とミナスジェライス州の支配体制「カフェ・コン・レイテ」を容認していた北東部など他の州も変化を求め始めた。
1921年リオグランデ・ド・スル州は「コーヒー価格維持政策」に反対して、カフェコンレイテに対抗する為、他の州と共に「共和主義対抗」を結成し、大統領候補者を出した。陸軍の若い将校達も、リオグランデ・ド・スル州の支持する候補者を支援した。こうして、ある一定の支持を得たものの、結果はサンパウロ州とミナスジェライス州の候補者の勝利に終わった。
陸軍の若い将校達は不満を募らせた。彼らはコーヒー権力者の支配による共和政に希望を失い、反自由主義を唱え、中央集権的な権力の樹立を希望した。改革を目指し、1922年と2年後の1924年の2回に渡って立ち上がり、反乱を起こした。しかしながら、この反乱はどちらも政府軍に鎮圧されてしまう。
陸軍の若い将校達によって引き起こされたこの一連の反乱は「テネンティズモ」と呼ばれているよ。彼らは、職業軍人として強いエリート意識をもっていたんだ。
協定なんて無視しちゃえ!支配層の分裂
1926年サンパウロ出身の大統領ワシントン・ルイスが当選し、ミナスジェライス州はサンパウロ州と締結した「大統領を交互に選出する協定」に従って、当然、次期大統領候補を用意した。しかし、ワシントン・ルイスはこの協定を無視して、自分の後任をサンパウロ州出身にすると言い出した。
これに反発したミナスジェライス州は、リオグランデ・ド・スル州と協定を結び、リオグランデ・ド・スルの州知事ヴァルガスを大統領、パライーバ州知事を副大統領の候補として支持をとりつけた。彼らは、無記名投票や、労働時間の短縮を公約に掲げて、中級階級と労働者階級の支持を得ようとした。
農業貴族政治時代の終わり
1930年10月、ついに新しい体制が確立される。
この年の3月、選挙は不正が横行し、サンパウロ出身の候補者が当選する。7月、ヴァルガスの副大統領候補だったパライーバの州知事が殺害される事件をきっかけにして、10月3日、選挙に不満を抱いていた陸軍の若い将校達が反乱を起こした。部隊をリオデジャネイロに進め、またそれに合わせて、ブラジル各地で反乱が相次ぐ。10月24日、リオデジャネイロでは、革命に賛同した軍上層部が、当時の大統領だったワシントン・ルイスを解任し、第一共和政は崩壊する。こうして、カフェ・コン・レイテ体制は崩れ、ブラジル農業の貴族政治は幕を閉じる。
41年間続いた第一共和政は倒されて、次のヴァルガスの時代へと移っていくんだよ!
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参考文献
- 金七紀男「図説 ブラジルの歴史」河出書房新社 2014/10/24
- シッコ・アレンカール、マルクス・ヴェニシオ・リベイロ、ルシア・カルピ / 東明彦、鈴木茂、アンジェロ・イシ訳「ブラジルの歴史 ─ブラジル高校歴史教科書」明石書店〈世界の教科書シリーズ〉 2003/1/24
- ボリス・ファウスト / 鈴木茂訳 「ブラジル史」明石書店〈世界歴史叢書〉2008/6/10