ヴァルガスは1930年からおおよそ20年間ブラジルを統治した大統領です。ブラジルの歴史はヴァルガス無しでは語れないと言ってもいいでしょう。この記事では、彼がブラジルを統治した1930年から1954年までをまとめています。ヴァルガス政権前のコーヒー支配層の時代はこちらをクリックして読む事ができます。

ブラジル農業の貴族政治体制も崩壊して、リオグランデ・ド・スル州の知事ヴァルガスが政権をとるんだ。この時代は「ヴァルガスの時代」とか「新共和政」と呼ばれるよ。

ヴァルガス政権の始まりは世界大恐慌の中

ヴァルガスーウィキペディアより

1930年10月、一部の陸軍がクーデターを起こし、ブラジルの旧共和体制は崩れた。リオグランデ・ド・スルの州知事ヴァルガスは、臨時政権を引き受ける。

ヴァルガス政権は、財政的に苦しい状況でのスタートとなった。1929年にアメリカで株価の大暴落がおきて、世界が大恐慌の真っ只中であったからだ。ブラジル経済の主力はコーヒーで、アメリカはブラジルコーヒーの最大の輸入国だったので、ブラジルのコーヒー輸出量は激減し、コーヒー価格の暴落に伴い、多くの労働者が職を失った。この財政危機に対応する為に、コーヒー価格の維持を目的として、ブラジル政府が余ったコーヒーを20%で買いとり、焼却する救済対策を始めた。

ファシズム、ブラジル共産党と権威主義

Man with mouth sealed in adhesive tape with Freedom message. Free of speech, freedom of press, Human rights, Protest dictatorship, democracy, liberty, equality and fraternity concepts
個人の権利、自由を制限し社会秩序を維持する

ヴァルガスが統治した1930年代、ブラジルでは、主に3つの異なる思想が力を伸ばしていた。ファシズム的な思想を持った「インテグラリスタ党」、社会的平等な改革を目指す「ブラジル共産党」、また軍上層部に支持が多い「権威主義派」であった。この頃、大恐慌の時期が後押しして、貧困と失業をもたらした自由主義、資本主義は不人気だった。ヴァルガスは陸軍勢力の増強を行い、陸軍を味方につけていた。

えーっと、ファシズムって何だっけ?

ファシズムは、結束主義とも言われているね。個人の自由や思想よりも国家が優先して考えられる全体主義で、反対派は弾圧される事が多いよ。

この「インテグラリスタ党」「ブラジル共産党」「権威主義派」は自由主義の批判、独裁などそれぞれ似た特徴をもっている所があり、明確な違いを定義するのはなかなか難しいが、それぞれ、求める社会観が異なっていたのは明らかだった。

1934年の憲法

Constitution of Brazil concept, 3D rendering

1934年7月、新しい憲法が公布された。ドイツのワイマール憲法をモデルとし自由主義や民主主義を示した憲法だった。翌日、ヴァルガスは、間接選挙で共和国大統領になる。任期は4年間の1938年、以降は大統領は直接選挙で選ばれるとされていた。憲法では、労働組合の承認と、組合自治の保障と共に、労働法の制定が明記された。教育に関するものでは、初等教育の無償化と義務化が定められた。宗教に関して、宗教教育は選択制とされ、カトリック教に限らず、全ての宗教に機会が与えられた。また、国家の経済的、軍事的防衛に関係のあるとされた天然資源の国有化を定めていた。

労働者を守る労働保護法

lauro de freitas, bahia / brazil - january 16, 2017: Teenager is seen working with cheese seller on Buraquinho Beach in the city Lauro de Freitas, which characterizes child labor.
ビーチでチーズを売る子供 -バイーア州, ブラジル

ヴァルガスは、労働階級を取り込んで、権力の維持に勤めていく。彼は旧共和政時代から激化した労働問題を社会問題として捉え、労働問題に積極的に取り組んだ。1930年11月には労働商工省を創設し、労働者保護法を定めた。8時間勤務制、有給休暇、14歳未満の児童労働の禁止などを制定し、彼は労働階級の民衆の支持を得ていく。

1943年には最終的にヴァルガスの労働法は、労働法典に体系化され、それは現在も組合と雇用者の関係を規定する法律として生き続けている。

政権は渡さない。ヴァルガスの策略

人気を集めるヴァルガスだったが、反対派ももちろん存在する。1935年3月、ヴァルガスに反対する者達が集まり、同盟を作りクーデターを起こすも、ヴァルガスは国家安全保障法により、同盟を閉鎖に追い込み、弾圧した。軍部も同盟に関わりを持つ者を排除した。

ヴァルガスの任期は1938年までだった。憲法上、再選は認められなかったが、ヴァルガスは政権を手放す気はなく、軍の支持を取りつけて、クーデターを目論んでいた。1937年、ヴァルガスはメディアを使って、共産党が政権を倒そうと、ブラジルに危機が迫っているなどと、偽りの文書を公表し、「戦争事態令」を発令し、11月10日、州軍の部隊が連邦議会を包囲し、議会を解散させ、目論んでいたクーデターを成功させた。

戦争事態令を出すと、憲法の一部が停止されたり、緊急事態に対応する為に大統領ができる権限が増えたりするんだね。人権の自由も発令中は尊重されなかったりするよ。

新国家の誕生

「新国家」体制という、権威主義体制が確立した。全権を握ったヴァルガスは、準備していた新しい憲法を発表した。この憲法はファシズム的な要素が多く、もっとも中央集権的な体制とみなされている。大統領は州統領の任命権を与えられ、州の自治体の権限は大きく縮小された。政党活動の禁止令を出し、政党はすべて廃止され、「インテグラリスタ党」「共産党」などの政敵を排除した。1937年から、ブラジルは常に戦争状態令下におかれ、議会は一度も開催されなかった。こうして、ヴァルガスは軍事を後ろ盾として1945年まで独裁政治を続ける事になる。

貧者の父、世論の人気を集めるヴァルガス

ヴァルガスの横顔が描かれた300レイスコイン- 1938年
ヴァルガスの横顔が描かれたコイン- 1938年

「新国家」体制下で、企業や、組合団体を政策決定に参加させるシステムを導入し、地方レベルを全国レベルへと組織化し、国家の支配下に置いた。労働組合は労働商工省の監視下におかれ、ストライキ権が禁止され、雇用者は解雇を禁止された。工業化にも力を入れ、1937年11月以降、工場の多様化をはかり、輸入に頼っていた商品を自国で生産できるように取り組んだ。

1940年5月、労働者の最低賃金が導入される。ヴァルガスは「貧者の父」「労働者の庇護者」と自らを演じ、ラジオなどのメディアを使い民衆を取り込んでいった。情報を操作し、自らに有利な世論の形成に努めた。政策に反する思想の者は拷問したり、国外へ追いやった。「新国家」は、国民を統合し、秩序を通して近代化を図り、革命的な目的を実行していると国民に語りかけた。

1942年:第二次世界大戦にブラジルも参戦する

1939年、連合国(イギリス、フランス、アメリカなど)と枢軸国(ドイツ、日本、イタリア側)の間で、第二次世界大戦が始まった。ブラジルにとって、ドイツとアメリカは重要な貿易相手だった為、中立を維持していたかった。しかし、アメリカは連合国側に引き込もうと、ヴァルガスが望んでいた製鉄所建設の為に多額の融資を支払う事を決めた為、ヴァルガスは連合国側に付くことを承諾。こうして、1942年、ブラジルは連合国側につき、第二次世界大戦に参戦する。アメリカから融資を受けて、ブラジル初の国営製鉄所が実現した。

ヴァルガスの矛盾と失態

国営製鉄所が実現した代償に、連合国に参戦した事のダメージは大きかった。

国内では、ヴァルガスに不信感を募らせる者が出てきた。ファシズム要素の色濃い憲法で独裁体制をしき、言論の自由を封じる一方で、反ファシズム戦争で民主主義軍営に協力し、軍隊を派遣するヴァルガスは矛盾していた。1943年、これまで、ヴァルガスを支えてきた軍人、農場主らによる反ファシズム、民主化運動が激しくなっていった。1945年2月、ついに追い詰められたヴァルガスは12月の大統領選挙の実施を認めざる得なくなってしまった。

反ヴァルガス側と、ヴァルガス支持側で選挙戦が繰り広げられ、ヴァルガス支持側は分裂し、ブラジル労働党を作った。大都市の労働層はヴァルガスの再戦を望む運動を開始した。反ヴァルガス側は海軍・陸軍の支持を固める事ができた。1945年10月、選挙を前にして、ヴァルガスは連邦区警察長官に実弟のベンジャミン・ヴァルガスを任命してしまう。これを機に、不満が募っていた陸軍の戦車隊は直ちに大統領官邸にむかい、ヴァルガスは抵抗することなく辞任し、故郷のリオグランデ・ド・スル州に帰っていった。

ドゥトラの政治

1945年12月、ヴァルガス支持側の出した候補者エウリコ・ドゥトラ将軍が当選。同時にヴァルガスも故郷のリオグランデ・ド・スル州の上院議員に選出された。

1946年9月には新しい憲法が公布され、自由主義と民主主義を取り入れたものとなった。基本的人権が認められ、信仰の自由、18以上の読み書きのできる男女に参政権が付与された。ストライキ権も認められた。

しかしながら、政治思想が、軍国主義や全体主義に偏り、ドゥトラ政権では共産党を弾圧し、非合法化した。労働運動も激しく規制するようになった。ヴァルガスが推進してきた、政府が為替を操作する工業保護政策を自由化した結果、国内工業は外国との競走にさらされ、多くの工場が倒産に追いやられた。さらに贅沢品の輸入で貯蓄していた外貨が無くなってしまった。ドゥトラのした自由化は失敗し、再び、統制経済に戻された。次期大統領選挙には、ヴァルガスが工業化と労働法の拡充を訴え、着々と再選に向けて支持を増やしていた。

1951年:ヴァルガス再選!

1951年1月ヴァルガスは再び大統領に君臨する。ヴァルガスの支持の基盤は都市の労働者と工業資産家階級であった。ヴァルガスは再び、工業化政策を優先し、経済の発展と雇用の拡大を目指した。軍部も武器や、軍事物資の国内生産を重視し、ヴァルガス政権に賛同した。

賃金値上げを!高まる社会不安

政府は工業化を中心として経済開発政策を進めたが、物価が高騰し、労働者階級は生活に苦しんだ。これを解決しようと、ヴァルガスは賃金引き上げを図ったが、工業資産家達の激しい反発を招いた。しかし、1954年5月、100%の最低賃金値上げを発表し、ヴァルガスは工業資産家階級を敵にまわした。軍部でもクーデターの動きが見られ、政治危機が高まっていく。

ヴァルガスの自殺と社会の混乱

社会不安が高まる中、ヴァルガスの側近による事件がおきた。ヴァルガスの側近は、彼の忠実心からヴァルガスの批判を掻き立てるジャーナリストの暗殺計画を立てていた。1954年8月狙われたジャーナリスト自身は軽症で済んだものの、彼を護衛していた空軍将校が殺害されてしまった。ヴァルガスはこの事件に関与していなかったが、激しく非難され、大統領の辞任を求める運動は一気に高まってしまった。軍上層部も辞任を要求する声明を発表した。1954年8月24日、ヴァルガスは大統領官邸の寝室で銃弾によって自ら命を絶った。彼は国民に手紙を残しており、自分を反勢力の犠牲者また同時に告発者として書いていた。彼は最後まで、民衆のヒーロを演じきり、ヴァルガスの自殺は世論に大きな反響を生んだ。民衆は大都市で反ヴァルガス派の新聞社や、アメリカ大使館を攻撃し、街頭で講義デモを展開した。この出来事より、密かに準備が進められていたクーデターは中止され、憲法上の規定に従い、副大統領が大統領に昇格した。

ヴァルガスはブラジルの発展に色々貢献したのね。彼の作った労働法も今現在も活用されているなんて、本当に彼無しでは、ブラジルの歴史は語れないね。

そうだね。あの有名な音楽サンバもヴァルガス政権期に生まれたんだよ。彼の時代に生まれたブラジル文化は現在も深く根付いている事が多くあるんだ。ヴァルガスのような、大衆の不満などを聞き、大衆の権利の拡大などを唱え、大衆の支持を得る政治思想や姿勢の事を「ポピュリズム」っていうんだよ。ヴァルガス政権は終わって、次は現在の首都ブラジリアの建設も始まるよ!

この記事の続きはココをクリック→「首都ブラジリア建設から軍独裁政治とブラジルの奇跡

〈参考文献〉