1954年のヴァルガスの死後から1985年の新生共和制のサルネイ政権までをまとめていきます。首都ブラジリアの建設に始まり、軍による圧力政治と「ブラジルの奇跡」と呼ばれた好況時期から石油危機で転落していくブラジル経済の混乱。なぜこんなにも物価の急激な上昇が起きたのか。その理由は世界恐慌を背景に外資への依存と物価の高騰を食い止めようとした政策にありました。最後にはわかりやすく時系列のまとめを書いたので、文章をあまり読みたくない人は「時系列まとめ」まで飛ばしてくださいね!

21世紀現在のブラジルにも影響の残る文化を残したヴァルガスの時代、1930年から1954年は「ヴァルガス時代まとめ」の記事を見てください〜!

5年間で50年の発展を!首都ブラジリアの建設

avenue of the monumental axis in the Federal District, Brasilia, Brazil
首都ブラジリア,ブラジル

21世紀、現在のブラジルの首都でもあるブラジリアは、ヴァルガス政権の後の1956年に建設が始まり、1960年に完成するという短期間で建設された。この時期にブラジル大統領に就任していたのはクビシェッキ大統領で、「5年間に50年の発展を実現する」という開発計画を発表した。この開発計画の目玉プロジェクトとされたのが、「首都ブラジリアの建設」だった。未来都市として機能性が重視され、車社会を想定して作られた。首都建設の他にも、クビシェッキ政権下で、資源や(製鉄、石油、エネルギー)物流などを国家の統制下におき、工業発展のため、積極的に外国からの資金や技術を取り入れ、ブラジルは大きく発展していった。

すご!4、5年の間に首都ができちゃったの!? すごい短期間だね。

それがね、この計画に掛かった莫大な費用は増刷と外資で賄われていて、こんな短期間に開発したもんだから、多額の財政赤字と物凄いインフレーションを引き起こしたんだよ。外国からの負債は23億ドル以上に達して、インフレ率も年率で35%近く上昇したんだ。国民は辛いよね。

え…。それは、なんか、発展しても素直に喜べない。

そうなんだよ。次期大統領はそんな国民の不満を支持に取りつけて当選するんだ。

権力を縮小された大統領のポピュリズム政治

大衆の支持を得る為、演説する人

クビシェッキのおこなった開発主義の犠牲となった民衆の不満を支持につなげて、1960年、サンパウロ州知事のジュニオ・クアドロスが当選した。ジュニオはなんとか、上昇するインフレ率を下げようと抑制政策をするが、上手くいかず、さらに外交面で共産主義国との関係を強化しようとした事がきっかけとなり、彼への批判が高まってしまった。1961年8月、ジュニオは辞任を表明する。憲法に従うと、副大統領が昇格する事になるが、副大統領だったジョアン・ゴラールはヴァルガスと同じポピュリストで、エリート層を重視せず農民や労働階級の不満を聞き、大衆の支持を得る人物であった為、ゴラール昇格に反対する者達も多く、後任問題をめぐって対立した。

結果、議員内閣制を採用するという事で落ち着いた。これにより、大統領の権限は縮小され、1961年にジョアン・ゴラールが大統領に就任した。この時期のブラジルは経済危機で物価上昇も無視できない問題だった。ゴラールは農業、教育などの基盤改革を含め、経済成長を維持しつつ、物価の上昇の抑制を目指す計画を発表。この計画は、ヴァルガスが体制を支えてきた労働者と工業資産家を同時に満足させるはずのものだったが、前期クビシェッキ大統領の開発計画で工業資産家は外国資本と連携を強めており、ゴラールの反帝国主義的な改革には批判的だった。

ポピュリズム政治の崩壊

資産家の支持を失ったゴラールは、1964年、彼の支持者の前で石油正精製所、鉄道、国道沿線の国有化を宣言。また、農業改革実現に向けて、一歩踏み出した。これに対抗して、保守勢力は反政府デモを展開し、ブラジルは左右2極で割れてしまった。

さらにゴラール政権が左傾化したのに危機感を抱いたのは軍部だった。1964年3月、ミナスジェライス州陸軍軍部をはじめとして、クーデターが起きた。ゴラールは流血をさけて彼の支持者を頼り、リオグランデドスル州に逃亡した。4月、大統領は不在とされ、軍部が権力を握り権威主義体制を樹立した。労働者からの抵抗はなく、ポピュリズム体制は崩壊した。

うむむ。またしても、軍によるクーデターで政権交代か…。

超ブラックな暗黒時代へ

Miltärischer Appell

1964年の軍事独裁政治はブラジルで21年間続く事になる。軍政令に基づき大統領となったカステロ・ブランコ将軍は就任と同時に、ゴラールなどのヴァルガス主義者、労働組合運動家、共産主義者、代議士ら400人以上の政治的権利を奪った。さらに、軍政令第2号を出し、既存の政党を解散させ、政党を限定した。また、大統領の選出を国民が直接選ぶ直接選挙から国会議員が選ぶ間接選挙に改めた。

ブラジリアの国会議事堂
国会議事堂-ブラジリア,ブラジル

1967年の新憲法で、国会は廃止はされなかったものの、名ばかりとなり、機能しなくなってしまった。行政に大幅の立法権を認めて、国家安全保障と国家財政の問題を行政府が権力を独占し、自由に行使して良いこととなったのだ。

つまり、今までは3権分立で国の権力を分けていたのに、国会が権力を失い行政が法律も作れるし、好き勝手にできちゃうようになったのよね。ちょっと怖い。

黙ってられるか!高まる軍の圧力と限定される表現の自由

軍の圧力政治に対して、自由を求める学生や労働者から激しい抗議運動が展開された。各地で労働者によるストライキが決行され、過激派は都市ゲリラ活動を展開、銀行強盗、企業家や外国人の人質融解事件が頻繁に起こった。

激化する抗議デモを、政府は黙っていなかった。1968年12月、軍政令第5号という、大統領に強力な権限を付与して、市民の人身保護令を停止することができる政令を出した。政府に反対する者は「危険人物」とされ、令状なんて無しに逮捕されていった。拘留され、拷問を受けた。マスコミも、政府に不都合な報道は禁止された。表現の自由の無くした多くの歌手や芸術家が亡命した。

ブラジルの奇跡と産業構造の変化

ブラジルの経済成長

1967年から1974年までの7年間は、軍事の圧力がのし掛かった超ブラックな独裁政治となったブラジルだったが、実は、経済的には好況になり、外国企業が競って進出した時代になった。輸出産業の強化や多様化を図り、外資系企業が高度の技術を要する自動車、電気、製薬などの分野に進出した。輸出の約6割を占めていたコーヒーは1971年には4割に低下する。政府は国内消費市場の拡大の為、自動車や家電製品の生産、また、需要の増加した住宅の建設を全面的に支援した。そして、都市にはショッピングセンターが続々と誕生する。

また、民間企業を支援するだけでなく、政府も国営企業を設立して、既存の石油公社や電源開発会社に加えて、アマゾン横断道路や水力発電所の建設、海上油田の開発など、巨大なプロジェクトを次々に実行した。こうして、1968年から1973年まで国内総生産は平均11%という高い成長率を記録。ポピュリスト政権末期に90%に達したインフレ率は物価スライド制を取り入れ、20%前後に抑えることに成功した。こうして、ブラジルは「ブラジルの奇跡」と呼ばれ、沸き返った。1970年にはサッカーのワールドカップでブラジル代表チームが優勝し、ブラジルの愛国心が一気に高まった時代でもあった。

物価の変動に合わせて、賃金、利息、年金などの金額を調整した対策をしたんだね。

ちなみにインフレ90%っていうと、例えば100円の品物が、1.9倍になって、190円になるって言えばわかりやすいかな? それが5年間で20%になったので、100円の物が120円になったんだね。

暗黒時代の終わり-目指す民主主義国家

軍の圧力が続く暗黒時代、ブラジルを統治している軍内部は強硬手段を用いずに、穏やかに解決しようとする「穏健派」と、強硬手段を使っても主張を貫こうと押し通す「強硬派」の2つに分かれていた。1974年、穏健派のエルネスト・ガイゼル将軍が大統領に就任して「ゆっくりと段階的に、政府の統制や弾圧から解放された状態である政治的自由化」への意向を明らかにし、国民にも希望が見え始めた。

そんな意向と逆らって、弾圧機関は強硬派の手の中にあり、1975年には共産党との関わりを疑われたジャーナリストが拷問死する事件が起こった。翌年1976年にも、同様の拷問死が明らかになった。ガイゼルは1978年市民の人身保護令を停止することができる軍政令第5号を廃棄した。そして、彼の後任として、1979年に大統領となったフィゲレードは政治犯に対する恩赦令を発令して、有罪により亡命を余儀なくされていた人々が続々とブラジルに帰国した。 また、新党の結成も認め、フィゲイレードは「ブラジルを民主主義国家にする」ことを責務としていた。

石油危機で財政難へ

不況

1973年は世界経済に大きな混乱をもたらしたオイルショックが起きた年だ。当時のブラジルは石油消費量の8割以上を輸入に頼っていた為、深刻な被害を受けていた。また、1979年に第二次石油危機に後押しされ、インフレと不況が同時に進行し、1981年の国内総生産は3.1%のマイナス成長を記録し、1983年には、インフレは210%に達した。

インフレ210%って、100 円で買えた物が、310円になるって事だよ。家計にはかなりの打撃だよね。石油危機によって、資源や原材料の価格が上がり、企業の生産コストが上がってしまい、物価が上昇する。通常、インフレの物や商品の需要が上がって物価が上がるのとはまた、違う現象だよね。

需要とは関係なく、生産コストの関係で値上がりするって事は、企業側の利益は増えないから、労働者の賃金も上がらないって事か。そうなると生活圧迫するから、物も売れなくなってますます不況になっちゃうね。

ブラジルの奇跡」が外国からの融資で支えられていたので、金利の高騰で1982年末には832億ドルに達した債務の返済が困難となってしまう。苦境に立たされたフィゲイレードは1983年、国際通貨基金に支援を要請した。そのかわり、国家通貨基金から要求された、貿易の自由化、民営化などの政策勧告を受諾しなくてはいけなかった。

新生共和制で民主主義の確立- 高まるインフレ

A woman holds a red up arrow above the wooden blocks and the inscription Price. Growing market value. Pricing. Market economy. Inflation. Consumer price index. Financial situation in the country.

1985年は軍政から民政に移行する事になった。フィゲイレードは軍政最後の大統領となり、軍政治の時代は終わった。そして、国民はこの新しい体制を「新生共和政」と呼んだ。 新生共和政期のはじまりは、経済危機から始まった。1000億ドルに膨れ上がった借金と、235%という史上最悪の数値に達していたインフレに対応しなければならなかった。

インフレ率が235%ということは、倍率3.35という事だから、例えば、1180円でオムツ1パック買えていたのに、3953円払わないと買えなくなってしまう感じだね。この時期は、物価がものすごく変動するので、貯金なんかせずに、買える時に買うという考えを持つ人が多かったんだよ。

スーパーにいっても商品がない!?崩れていくブラジル経済

Interior of supermarket with empty shelves.

この民主主義が復活した新共和政で政権を握ったのはジョセ・サルネイ大統領だ。高まるインフレ対策として彼の就任翌年(1986年)には通過を「クルゼイロ」から「クルザード」に改めて、その価値を1000分の1に切り下げるデノミネーションを行い、物価と家賃の引き上げを一定期間認めなかった。インフレが20%を超えると賃金は自動的に引き上げられた。この計画は「クルザード計画」と呼ばれ、国民から歓迎され、一時的ではあったがインフレは収まり、消費が増加した。

デノミネーションは、例えば、1000円を新1円とかに変更することだよ。インフレによって表示価格が大きくなりすぎて、計算や支払いなどが不便になった時に、解消方法として行われるよ。

しかし、問題も起きて来た。物価が上げられない事で、需要があっても生産コストが高くなり企業側は利益にならず、生産の縮小や、小売業者の売惜しみが始まり、需要と供給のバランスが大きく崩れてしまった。スーパーから商品が一斉に姿を消した。

政府は徐々に物価の凍結を解除し、翌年の2月には完全に自由化された。結果、クルザード計画によって65%に抑えたインフレは1987年に416%に上がってしまう。クルザード計画の失敗だった。サルネイは任期終了前に新たに1000分の1のデノミネーションを断行した。また、ブラジルの国際的信用も地に落ちてしまう。貿易収支は赤字に転落し、対外責務の支配が困難になり、支払いを一時停止する「モラトリアム」を宣言した。

債務者であるブラジル側が一方的に支払い猶予を宣言? そんな事できるの?

そうだね、約束を守れないから、国の信用はガタ落ち、資金調達も難しい。新規にお金を発行しても、お金の価値が下がり、物価が上昇してしまうという、難しい状況になって来ることが予想できるね。サルネイ政権末期は物価が1ヶ月で約2倍になっていて、同時に治安も悪化していったんだ。この頃、僕は子供だったんだけど、強盗に出くわすかもって外に出るのがすごく怖かったのを覚えているよ。

時系列まとめとインフレ率グラフ

1954年 ヴァルガス自殺

1956年 クビシェッキ大統領 ー開発計画!5年に50年の発展を!

1960年 ブラジリア完成、ジュニア大統領が選出

1961年 ジュニア大統領辞任、ゴラール副大統領が昇格

1964年 クーデターで政権交代:軍独裁暗黒政治へ

ブラジルの奇跡時代 
1967年 国会機能不全、デモが激化
1968年 軍政令第5号発令
1970年 サッカーワールドカップ優勝、インフレ率20%前後まで減少に成功!
1973年 石油危機が勃発 世界大恐慌へ

1974年 ガイゼル大統領が「政治開放」を宣言 – 軍事政令第5号を破棄

1983年 国際通過基金に支援を要請、インフレ率が220%に上昇!

1985年 「新共和政」サルネイが大統領に就任

1986年 クルザード計画でインフレ率が60%前後に!

1987年 価格自由化に伴い、インフレ率急上昇!416%に!対外責務の支払いが困難になり「モラトリアム宣言」

ブラジルのインフレーション率(1960年-1979年) グラフ出典: UNIVERSITY from Rio de Janeiro
ブラジルのインフレーション率(1960年-1979年) 
グラフ出典: UNIVERSITY from Rio de Janeiro
ブラジルのインフレーション率(1970年-1989年)グラフ出典: UNIVERSITY from Rio de Janeiro 
ブラジルのインフレーション率(1970年-1989年)
グラフ出典: UNIVERSITY from Rio de Janeiro 

軍事の圧力政治の好況期「ブラジルの奇跡」から経済の混乱へと激動の歴史を辿るブラジル。上のグラフを見てわかる通り、1988年、1989年には経済が大変な事になるのがわかりますね!この危機をブラジルはどう解決していくんでしょうか。また、続きを楽しみにしてくださいね。

参考文献